《1999年10月24日 〜 1999年10月30日》


 高岡市の観光地を、ドライブしてきました。…といっても、1日で全てを回るのは、とても難しいので、今回、訪れたのは、おとぎの森公園、前田利長公墓所、八丁道、繁久寺、高岡古城公園、高岡大仏、二上山万葉ライン、万葉歴史館、勝興寺、如意の渡の10ヶ所です。まず、1997年に、「全国都市緑化とやまフェア」のメイン会場になっていた、「おとぎの森公園」へ。11万2千平方メートルにもなる敷地には、公園内のシンボルでもある「おとぎの森館」、色とりどりの花を咲かせる花壇、休日には子供たちで賑わう遊戯施設や芝生などもあり、今では、高岡市を代表する公園の一つとなりました。私自身、ここ最近、何度も足を運んで来ておりますが、今回は、野バラを中心に、撮影してきました。これまでにも、ここでは、たくさんの写真を撮ってきましたが、それでも満足できず、まだ、ここには、当分、通うことになりそうです。次に訪れたのは、「前田利長公墓所」。ここは、高岡駅南方面にある、芳野中学校のすぐ傍にあります。余談ですが、この「芳野中学校」は、私の母校でもあり、その記念ついでに、芳野中学校の写真までも撮ってしまいました。前田利長は、加賀百万石の開祖、利家の嫡男です。慶長14年に、高岡城を築きあげ、今の高岡市の礎を築き上げました。1614年に没し、その後、加賀三代藩主の利常によって、1646年に、墓を完成させました。この墓所に踏み入れると、中学生時代を思いだし(陸上部に所属していた頃、敷地内の参道も、トレーニングコースとして使われていました)、とても懐かしく感じました。現在の墓所の広さは、10,557平方メートル(3,199坪)あり、墓を覆う林は、ひっそりとしています。池には、ザリガニが生息しているので、いつも、ザリガニ釣りに来る子供たちが絶えません。また、近くには、うるおい環境とやま賞を授与された「八丁道」があります。この道は、前田利長公墓所から瑞龍寺までを結ぶ参道で、その距離が八丁(約872メートル)あることから、名づけられています。昭和62年より、3年がかりの工事を経て、道幅19メートルの内、中央部に8.4メートルの白い石畳で舗装された歩道と、その両脇に、114基の灯龍が並ぶプロムナードを完成させました。夜になると明かりが灯って、散歩に最適なコースの一つとなります。学生時代、わざわざ夜になるのを待って、この道をよく散歩したものです。次に、「繁久寺」というお寺へ参りました。ここも、前田利長公墓所のすぐ横に位置しています。そもそも、利長公墓所の御廟寺(祖先の霊を祭る所)として、造営された寺院ですから、それも当然のはずです。現在の建物は、1859年に惜しくも全焼した為に、1862年に再建されたものです。境内を囲む回廊には、五百羅漢の像が立ち並び、その迫力に圧倒されました。中学生時代のときは、この繁久寺の前を、通学路として横切っていたのですが、当時は、全く興味を示していなかっただけに、3年間(…というか、26歳になるまで)、この寺を知らずに、通学していたのかと思うと、恥ずかしくもありました。ただ、逆光によって、デジカメで撮影したほとんどの画像は失敗に終わっており、もう一度、出直さなければなりません。


 次は、高岡市のほぼ中心に位置する、「高岡古城公園」へ。21万平方メートルの広大な敷地と、全体の約3分の1を占める堀は、今も変わらず、高岡市を代表する自然公園となっています。しかし、古城と名が付いているとはいえ、その城跡は残されておりません。その理由を挙げますと、加賀二代藩主の前田利長は、キリシタン大名の高山右近に高岡城を設計させ、もう少しで完成という、あと一歩のところで、歴史の教科書でも習った、「一国一城令」の発令により、未完のまま、終わってしまったからなのです。「一国一城令」は、外様大名(主として「関ヶ原の戦」後に臣従した諸大名)達が、幕府に対抗できるだけの勢力を保持できないようにと発令されたもので、この高岡城の建設が、その発令に大きく関係しているとも言われています。そう考えると、この高岡城という存在は、歴史の教科書にこそ登場はしないものの、歴史に大きく影響を及ぼす存在だったといえます。この他にも園内には、体育館、動物園、自然資料館、博物館、図書館、市民会館、弓道場、芸術の森と、施設も充実しています。次は、高岡古城公園から、歩いて5分もかからないところにある、日本3大仏の一つ、「高岡大仏」です。奈良や鎌倉ほどの賑わいはないものの、銅器の町と知られる高岡の象徴として、今も、私達を見守っています。1745年、坂下町極楽寺の僧の発願によって、木造金色、高さ9.7メートルの大仏を建立したのが、高岡大仏の起こりです。ところが、1821年の大火で貰い火を受け、惜しくも焼失してしまいました。その後、1841年に、木造大仏を再建したものの、今度は、1900年の大火により、御尊顔を残し、再び焼失してしまいました。そこで、三度焼けることのないようにと、身長7.43メートル、重量65トン、地上からの総高15.85メートルにもなる、青銅造りの大仏尊像を、1933年に完成させたのです。ただ、高岡大仏を拝観するにあたり、近くに駐車場がないのは、大きな問題です。特に、大型バスにとっては、道も狭く、交通の便も、よくありません。駐車場と近辺の道路を整備すれば、観光客も増えることでしょう。


 後半は、「二上山(ふたがみやま)」周辺の観光地を訪れました。まずは、「二上山万葉ライン」というドライブウェイを走りました。二上山は、標高274メートル(今まで、273メートルだと思い込んでいました)の小高い山で、古代から、神の山として崇められています。頂上からは、高岡市街を含めた富山平野や、富山湾、立山連峰を一望できる景勝の地となっており、越中国守として滞在し、万葉集を編集した大伴家持も、数多くの歌を詠んでいます。二上山万葉ラインは、全長約8.4キロメートルで、途中には、「守山城址」「平和観音像」「平和の鐘」があります。私の実家は、伏木矢田南台にあり、休日の晴れた日は、平和の鐘に訪れる人も多く、その鐘の音は、私の部屋にも届きました。ただ、この二上山万葉ラインは、最近、夜間に、急カーブを高速で走るローリング暴走が目立ち、事故も多発していることから、県警交通規制課のもと、10月4日から、伏木一の宮(伏木ガーデンファミリーゴルフ場)前から、城光寺前までの1.75キロメートルの区間を、バス、タクシー、許可車を除く車両を対象に、午後11時〜午前5時までの間、通行禁止として、規制されてしまいました。この日も、下り道で、ガードレールに激突して大破したと思われるスポーツカーをみかけ、あたり一面の道路には、車の破片が飛び散っていて、見るも無残でした。二上山万葉ラインを下ると、次は「万葉歴史館」へ。ここは、万葉集とその時代を研究している専門の施設で、関連する文献や資料も、数多く取り揃えられています。実は、ここに訪れた頃には、私も疲れを見せ始め、今回、建物の写真だけを撮り、施設には入館しませんでした。ところが、夕日の逆光を受け、画像は全て使い物にならないことが後で分かり、大変、ショックを受けました。もう一度、ここにも足を運び、次は入館する予定です。ちなみに、万葉集を編集した大伴家持は、746〜751年の5年間、越中国守としてこの地に在任し、220余の越中万葉歌を詠んでいます。次は、「勝興寺(しょうこうじ)」へと移動しましたが、どうやら、現在、本堂の保存修理工事中らしく、境内の一部しか拝観できませんした。この工事は、平成16年まで続くそうで、それまでは、勝興寺の七不思議とされている、「@実らずの銀杏」「A天から降った石」「B水の枯れない池」「C屋根を支える猿」「D魔除けの柱」「E雲龍の硯(すずり)」「F三葉の松」を、観ることができないのは、とても残念なことです。しかし、平成16年といのは、随分と先の長い話ですよね…(まだ、4〜5年も先のことと考えると、気が遠くなりそうです)。高岡市観光の最後を締めくくるのは、小矢部川河口にある渡船場の古名で、左岸の伏木と右岸の六渡寺(中伏木)を結ぶ、「如意の渡」です。室町時代の軍記物語「義経記」の中に、「如意の渡にて、義経を弁慶打奉るの事」という挿話があり、この如意の渡は、かつてこの辺りにあったと伝えられています。その挿話によると、1187年の春、奥州に落ちのびる源義経一行は、如意の渡から船で六渡寺へ進もうとしたところ、渡守の平権守(たいらのごんげんのかみ)は、「判官殿(義経のこと)ではないか」と怪しみました。もし、義経であることが見破られ、頼朝に通報されると一大事であると考えた弁慶は、「あれは、加賀の白山より連れて来た御坊で、判官殿と思われるのは心外だ」と言って、嫌疑を晴らすために、扇で義経をさんざん打ちのめすという転機で切り抜け、無事に乗船することができたというものです。この話はとても有名で、私も学生時代に聞いたことがあります。ただ、これとよく似た伝説は、全国各処にあるらしく、ここは、その一つに過ぎません。その中でも特に有名なのは、加賀にある安宅の関で、謡曲や歌舞伎にもなっています。他にも、雨晴海岸、気多神社等でも、義経や弁慶にまつわる伝説があります。次回、国宝指定の瑞龍寺と共に、雨晴海岸と気多神社を、巡ってこようと考えています。


 高岡市の観光地をドライブした後は、私のお気に入りの食べ処の一つである、「ますや食堂」に行きました。場所は、国道156号線、高岡市清水町交差点から水道公園へと向かう道の左手にあります。ソース、スープ、マヨネーズ、カレーのルーに至るまで、すべて自家製というこだわり、メニューも、麺類、丼、洋食と豊富に取り揃え、いつ来ても飽きさせません。なかでも、看板メニューの、「かつ丼」は絶品です。肉はやわらかく、玉子はふんわりとしていて、衣と見事にマッチしています。営業時間は11時〜20時。定休日は、毎月6日・16日・26日・第3火曜日。駐車場は6台分で、席は30名まで入れます。


 突然、内蔵モデムの調子が悪くなり、インターネットに接続出来なくなった為に、2回目の修理に出していたパソコンも、23日間かかって、ようやく返ってきました。ところが、インターネットに全く接続することが出来ず、予想外の結果に。やっと戻ってきたという喜びは、ぬか喜びに変わり、むしろ腹立たしさが増してきました。早速、購入元にメールを送ったところ、一度、同機種の別の内蔵モデムと交換してみることになりました。そのメールの受け取り主も、私と同機種のパソコンを個人で所有しており、普段は、ターミナルアダプタからネットワークボードを通じて、インターネットに接続している為、内蔵モデムは使用していなかったのです。もし、その内蔵モデムをお借りして、それでもインターネットに接続できないようであれば、原因は、内蔵モデムではなく、パソコン本体を含め、別にあるということになります。まずは、それを明らかにさせなくてはいけません。その内蔵モデムに交換して、接続テストをおこなったところ、5回中5回とも繋がり、まったく問題ありませんでした。どうやら、修理から返ってきた内蔵モデムは、交換されないまま、私のところに送ってきたものと思われます(23日間も待ったというのに、これは、一体、どういうことだ?)。ただ、再び、パソコンを修理に出すということになりますと、また20日間以上も、待たなくてはなりません。それを思うと、かなり気が滅入ってきます。そこで、担当者に結果を伝え、これからどうすればよいのかを相談したところ、内蔵モデムを業者から送ってもらうように、連絡をとってもらうことになりました。そして、ようやく、新品の内蔵モデムが届き、無事、交換することができました。勿論、インターネットへの接続テストも確認しました。ようやく、一件のトラブルは、終結しました。また、同じようなトラブルが起こらないよう、新しく雷ガードを購入する予定です(もうそろそろ、保証期間も切れますし)。既に、発注はしてありますので、11月下旬に納品され次第、早速、雷ガードを取り付ける予定です。それまでの間は、面倒ではありますが、ケーブルを外すことにしています。


 近所から脱走して、工場の敷地に居着いてしまった、うさぎのラビちゃんを、最近、見かけなくなりました。どうやら、その後、ラビちゃんは、守衛の方に保護され、飼い主の元へと返されたそうなのです。ただ、そのときに、「もう、脱走しないように、注意して下さい」と、飼い主に忠告したらしいのです。私達、従業員は、別に迷惑していないだけに、とても残念です。しかし、守衛の方の行動を非難することは出来ません。もし、トラックの前にでも飛び出してきて、事故など起こそうものなら、大騒動です。彼らも、ラビちゃんとは、悲しい別れになることを決断した上で、とった行動であると、私は強く信じたいです。このことは、工場長にも連絡が回っているらしいので、もう、ラビちゃんに会うことはないでしょう。さようなら、ラビちゃん。


 先日、自家用車のバッテリーがあがってしまい、バッテリー交換したことをお伝えしました。それから43日後、今度は、右のフロントタイヤ(前輪)が、パンクしてしまったのです。ここ最近、パソコンの内蔵モデムは壊れるのわ、バッテリーはあがるわ、タイヤはパンクするわと、次から次へと災難が降りかかってきます。厄年というなら、それは去年のはずですし(厄年を信じていませんけど…)、七難八苦続きに四苦八苦しています。…とはいえ、嘆いていても仕方のないことなので、取り敢えず、タイヤ交換ぐらいは、自分でも出来ますから、スペアタイヤに履き替え、休日に車検工場の方へ行ってきました。タイヤは、完全にバースト(破裂)状態だったので、新品を購入するだけの余裕もないことから、中古のタイヤを購入することにしました。それまでは、一時的に別のタイヤに付け替えてもらいました。…というわけで、もう一度、車検工場に足を運ばなくてはいけないようです。今更、原因を考えても埒も無いことですが、最近、通勤路途中では、至るところで道路工事をしており(私のアパートの目の前の道路も工事中)、運悪く、突起物を踏みつけたのだろうと思います。…そういえば、休日に、二上山万葉ラインの事故現場で、車の破片が飛び散っていたのを、仕方なく踏み潰して通り過ぎましたが、まさか…。他にも、火曜日の午後、ある協力工場の西暦2000年問題対策で移動する際、国道8号線で事故があったらしく、ガラスの破片を仕方なしに踏んで進んだこともありました。でも、パンクしたことに気づいたのは、金曜日の朝。それまで、パンクしたことに気づかないまま運転していたとは、考えられません。一体、どれが、根源なのでしょうか?