「読書力」 ハイブロー武蔵:著 総合法令

 私は、読書論に関する本には目がない。これまでにも、本屋で、読書の技術とか、読書の重要性をうたった本等をみかけると、よほどのことでもない限り、すぐに買ってしまう。読書論の本を読書するというのも、少し本末転倒な感じではあるが、またしても今回、タイトルからしてズバリそのままの一冊を、買ってしまった。「読書力」である。

 机の上には、まだ読みかけの本が14冊もある。普通ならば、買ってきた順番に、本を読んでいくのだが、読書論ともなると、先に買った本を読み終えるまで待つのは、私にとっては酷なことだった。つい、我慢しきれず、すぐに「読書力」のページを開いてしまった。実際に読んでみて、著者は、私達に何を伝えたかったのか、すぐに理解することが出来た。簡潔にひとことで言い表すと、それは、「本を読めば、人生は成功する」ということだ。

 著者は、「本を買うということは、問題意識があるということである」と述べている。問題意識は、好奇心から生まれる。その熱意さえあれば、読む時間のあるなしは二の次であり、積ん読になっても構わない、ということだ。確かに、本を読もう、という気持ちは大切だ。それは、何かを学びたい、知りたい、という気持ちにも置きかえられる。いわゆる、向学心である。その気になれば、マンガからだって学べることは大いにあるはずだ。私自身、いつかマンガから名言集を作ってみせるつもりだ。マンガは低俗で、活字の方は偉いと、そう簡単に決め付けるものではない。

 私は、「向学心」こそ、学校で最も教えなくてはいけないことだと考えている。「向学心」の大切ささえ理解できれば、それで十分ではないだろうか? 必要のないことを学ぶよりも、よっぽど知的なことだと思う。嫌な勉強を半強制的に強いられれば、卒業した後、自ら学んでいこうという気が廃れても、それは至極当然のことだ。読書感想文を無理に書かせることも問題だ。何故、読書感想文は必要なのだろう? ある一冊の本を感想文にしたところで、その感想文を読んだ先生に、その本の何を語れるのだろうか? 著者も、読書感想文は、本嫌いを生産するだけだ、と語っている。必ず、面白かったと書かなければいけないのか? 感動しなければいけないのか? そんなことはないはずだ。つまらなくてもいいと思うし、その本を批判するのも、主人公の行動を馬鹿にしたり、笑ったりと、人それぞれの受け止め方があっていいはずだ。画一的な感想には、個性もないし、感想を書いた本人自身のためにもならない。

 私は、学校の授業には興味を示さなかったが(コンピュータは別として)、学校にある図書館には、毎日のように通った。今の自分の基礎は、ここで鍛え上げられたものだと心から信じている。数学や専門科目はいつも赤点だった私も、立派な図書館のおかげで、読書に興味をもつことが出来た。読書の面白さを学校で知ったからこそ、私は過去を全く後悔せずにすんだ。これが逆だったら、私は今ごろ、何をしていたのかと思うと、むしろぞっとする。私の弟も、1999年に、私の母校、高岡工芸高校に入学した。私は弟の成績には、全く興味がない。ただ、私がそうであったように、読書の面白さをそこで掴んでさえくれれば、それだけで、卒業に値すると信じて止まない。この私の気持ちは、著者の次の言葉と一致している。「はっきりいって、学校よりも読書が大切だと思うのだ。いまの学校では、ほとんどどうでもよい知識を教えている、と思う」

 これまでは、「読書力」の中から、読書の大切さや素晴らしさを中心に話をしてきた。もちろん、読書論としては大切なテーマである。しかし、読書の技術面においても、為になる一冊である。例えば、「ベストセラーも読んでみよう」というページでは、「ベストセラーだけを追いかけるというのも寂しいし、問題があるが、ベストセラーは読まないというのも料簡が狭くないか」と、著者はコメントしている。私は、グーズベリー随想録の第1集で、「ベストセラーにはこだわるな」と書いてきた。私の場合はどちらかというと、ベストセラーは、なるべく読まない方がいい、というニュアンスを醸し出している。でも、良く考えてみると、ベストセラーには、ベストセラーになるだけのパワーがあったわけなのだから、今、私達は何を求めようとしているのかを知るうえで、ベストセラーはとても重要で且つ、時代・文化・流行を反映したものとして、受け入れることは、とても大切なことだと思った。どうやら、自分の考え方に、少し修正を加えなければいけないようだ。「読書力」と同様に、中谷彰宏さんの「自分で考える人が成功する(PHP研究所)」においても、中谷さんは、「『ベストセラーは、どうせロクな本じゃないから読まない』と言う人がいます。この人も本が嫌いな人です。理屈をつけて読んでいないだけです。ベストセラーになるには、何か理由があるのです。理由もなく、本は絶対売れないです」と語っている。

 もう一つ、「読書力」より、取り上げていきたいのは、読書の技術において、よく取り上げられるテーマ「速読」についてである。読書論をいろいろと読んでいると、「速読」の必要性について、著者の意見は賛否両論と様々である。「読書力」の著者は、「速読」については、「ノー」と答えている。その理由は、「よりたくさんの知識を詰め込むよりも、問題意識にもとづいた考える読書のほうが、どれだけ有意義かわからない」というものだ。実をいうと、私は本を読むのが大変遅い。何度か速読を試したこともある。しかし、全然、頭の中に残っていかないので、途中で断念した。でも、私は今のペースで十分満足している。例えば、私の大好きなファンタジー小説「デルフィニア戦記」を、休日を利用して、4〜5時間かけて、ゆっくりと味わうことに、とても幸福感を感じる。こんなペースでは、1日に何冊も本は読めないかもしれない。どちらにしても、この世の本を全て読むことは不可能だ。私としては、いかに情報を溜め込むかよりも、いかに思索していくかということに重点を置いたことで、速読の必要性を自ら排除した。もともと、記憶力は優れていないので、記憶することよりも、考えることに楽しみを覚える。少しずつ本を読んで、いろいろとじっくり考える読書に、かっこよさを感じている。まだ、そんなレベルには達していないけれども。

 最後に、今まで取り上げてきた話の他にも、「読書力」では、読書のありとあらゆるツボをおさえているので、この本を読んで、是非とも、読書に興味を得られたらと願うばかりである。